伝記:
息軒は、近世の大儒と仰がれている。
飫肥藩の藩儒、安井滄洲の次男として生まれ、21歳のとき、大阪の篠崎小竹のもとで学び、26歳で昌平黌に入って、かたわら松崎慊堂に学んだ。篠崎・松崎の両人とも、息軒の学識に大いに驚き、「弟子を以て之を視ず」と伝えられている。その後、28歳で藩主侍読とり、38歳のとき再び江戸に出て、昌平黌に学びながら、三計塾をおこした。このころ塩谷宕陰と親交を結んだ。
44歳のとき松島へ旅行し、旅行記を書いた。このとき、塩谷宕陰は有名な『送安井仲平東遊序』(『漢文名作選』第2集所収)を作り壮行した。(宕陰はこのとき34歳。)
その後、ペリーの来航で天下が騒然としたとき『海防私議』を著して、海防策を主張した。藤田東湖を介して水戸烈公に知られたのもこのころである。
64歳のとき幕府直参となり、昌平黌教授に任じられた。朱子学派以外の学者(息軒は古学派)の任用は、前例なきことであった。息軒の名声がいかに高かったかが分かる。
その後、三計塾での議論をもとに『管子纂詁』を作り、これを洋行する中村敬宇に託して、清国の応宝時の序文を得た。また、明治6年、75歳のとき、邪蘇(基督)教の蔓延を憂え、破邪書『弁妄』を書いている。
明治9年、78歳で没。
息軒の主著である四書の注釈と管子纂詁は、冨山房の漢文大系に収められているので、現在でも容易に見ることができる。
安井朴堂(小太郎)は、息軒の外孫にあたる。
息軒先生の夫人は、「岡の小町」と呼ばれた評判の美人であった。(森鴎外『安井夫人』)
2002年3月24日公開。