伝記:
恕軒は二歳で父を失ったが、幼時から学を好み、海保漁村、芳野金陵、大槻磐渓について学んだ。仲でも漁村に学んだ期間が長い。特に易・詩経・左伝・史記に通じた。
のちに東京で、奇文欣賞塾を開いて講説した。その後、明治13年から東京大学に出講し、明治16年東京大学古典講習科の講師となった。このときは、井上哲次郎なども受講している。しかし、学制改革により数年で職を解かれた。その後、近藤真琴の攻玉社に出講したり、三重県や和歌山県などの中学校教諭になったりしている。
恕軒は弁舌に巧みで、朗読が上手だった。赤穂義士の話を得意としていた。三遊亭円朝に「牡丹燈籠」の趣向を教え、それが大当たりになったこともある。(三浦叶『明治の碩学』、汲古書院、336ページ)
成島柳北、大沼枕山、菊池三渓、塩谷簣山、中村敬宇、川田甕江、依田学海、小永井小舟らと親交があったが、大槻如電とは仲が悪かったという。(三浦、前掲書、338ページ)
長男・淳平は、外務省をへて早大教授(国際法)。
2003年11月16日公開。