伝記:
淡路島の洲本で、銃隊長の職にあった前羽信近の子として出生し、藩医であった井上玄貞の養子となった。
文政12年(1828年)、18歳で京都に留学し、頼山陽の友人である蘭医・小石元瑞のもとで医術を学び、かたわら頼山陽から漢詩文を学んだという。
天保3年(1832年)、養父の死去によって家督相続。天保11年(1840年)、藩主に従って江戸に上る。
天保11年(1840年)、前川町中洲(なかず)に居宅を賜り、以後はここに住んだので、にちに「不鳴(なかず)」と号したともいわれている。
弘化3年(1846年)、長崎に遊学し、3年間にわたり西洋医学の種痘術と産科を学んで帰国した。このとき産科の器具を持ち帰り、多くの難産を救っている。また、嘉永2年(1849年)以降、藩内各地において種痘を行った。これが四国における種痘の最初であるとされている。当時は交通が不便で痘苗の入手が難しかったため、門人を農家へ派遣して牛の体に痘瘡を発生させる方法で痘苗を確保したといわれている。このようにして不鳴先生が種痘を施した人数は、1万人近いと伝えられる。
安政6年(1859年)、再び藩主に従って江戸へ上り、横浜においてシーボルトと対面した。
翌年、医師御免、還俗を仰せつけられて士籍に入り、藩命によって九州各藩の産業を視察し、農業・水利・製塩等の産業開発に尽力した後、明治2年(1869年)に致仕し、隠居している。これは開国論を唱えたためともいわれる。
その後、明治3年(1870年)徳島医学校一等助教に任ぜられ、明治15年(1882年)には71歳で、編集役兼女学校御用係となり、余生を教育に尽くした。
老年に及んでも、気力は少しも衰えず、公務の合間には文墨を楽しみ、悠悠自適の生活を送った。
明治25年(1892年)、81歳で没。
2011年1月1日公開。